辻井秀彦プロフィール

設計者であること以前に、家づくりに憧憬する一個人として

今までにたくさんの家づくりに携わり、設計や現場も経験してきました。

それでも新たな家づくりの話があるたびに、かけだしの頃の気持ちがよみがえり、身が引き締まる思いと同時に何とも言えないワクワク感がこみあげてきます。
こういう気持ちを、気恥ずかしいですが「ときめき」というのでしょうか。

住まいにはそれぞれの暮らしのこだわり、夢、未來への思いがぎっしりとつまっており、話を聴けば聞くほど、設計が進めば進むほど、その奥深さと厳しい条件を乗り越える楽しさがあります。

どうしてここまで家づくりに特別な思いを持つようになったかを話すことによって、プロフィールとさせていただきます。

おばけやしき?と便利な集合住宅

私が育った環境は少々変わっておりますが、ふたつの家を行き来する、二重生活でした。
家がふたつあるのは裕福だからではなく、ひとつは明治時代に建てられた古屋を改造して工場としても使っていました。つまり昼間は工場で暮らし、寝る時だけ近所にある集合住宅ですごしていたわけです。

明治時代に建てられただけあって、都会とは思えない井戸が2か所もあり、大きな土間がありました。キッチンも「すいば」と呼ばれる土間の床であり、現代のシステムキッチンとはかけ離れたものでした。

台風が来れば、屋根が飛ぶのではないかとハラハラしたり、いまから思えば不便極まりない家のはずですが、子どもにとっては「とにかく楽しく、そして怖い家」でした。
井戸、土間だけでなく、真っ暗でひんやりとした床下など・・・何か未知の生物やお化けがいそうな想像をかきたてます。だからたくさんの友達が探検をしにやってきては、私が率先して、大勢で走り回り、騒ぎ立て、工場の仕事の邪魔をしてしまったものでした。

それに比べると、夜の家である集合住宅は、エアコン、テレビ完備の便利な家でしたが、子どもにとってはつまらないものでした。

子ども時代に暮らした「楽しいが不便で怖い家」と「便利だけど普通の家」の二つの家のギャップには大きな影響を受けました。

野球が得意でしたが、いつのまにか、家の簡単な修理や設計図のようなものを描いて遊ぶことも多くなりました。

阪神淡路大震災の記憶

忘れもしない1995年1月17日に阪神淡路地域でおこった大地震。
その時はすでに就職し神戸の実家を出て、広島に赴任していました。

広島でもかなり揺れて、当時住んでいたマンションはギシギシときしみました。
それでも身の危険を感じるほどではなかったので、そのまま寝て、朝起きてテレビを何気なくつけました。

たまたま朝のニュースをやっており、その画面を見て、わが目を疑いました。

「神戸で震度6強」とテロップがあり、見慣れた景色に真っ黒な煙がもうもうと出ていました。
(後に震度7に訂正されましたが、最初は震度6強と報道されていました。)

頭の中が真っ白になりました。

「多くの家屋が倒壊している模様です。あちらこちらで火の手があがっております。」という報道員の声は今でもリアルに思い出します。(というかトラウマになっています。)

そこからその日のうちに神戸になんとかたどり着くわけですが、自転車運転中に死に直面したり、その道中もいろいろありましたが、それはまたの機会に。
自宅は全壊、両親は何とか助かりましたが、伯父と友人は数人助かりませんでした。合掌
(ひとりは野球でバッテリーを組んでいた捕手で、屈強で筋骨隆々な彼がまさかと思いました。その他色々ありましたが、またの機会に)

神戸のあまりの惨状にただ呆然としました。

そのあとしばらくの期間、救助活動をしていました。
ガス臭く、余震のたびに建物はさらに壊れつづけました。
実際、救助中に上から大きな角材の様なものが落ちてきて、右肩にあたり、その後半年ぐらいはボールも投げられませんでした。(当時、会社の野球部で投手でしたので)
あちらこちらでうめき声も聞こえます。声がすれば、周りにいる同年代の若者に声をかけ、がれきをどけて助かった人は外れたドアをストレッチャーがわりにして運び出しました。
(中略 またの機会に)

地震や自然の力の桁違いで恐るべきパワーと安全を守るべきはずである建物が反対に凶器になったという現実。

黙々とがれきを片付けながら、これは悪い夢で、そのうち覚めるのでは・・・という妙な錯覚(懇願に近い)に陥りました。(とても寒く、寝る場所も時間もなく、自分自身の体力が消耗していたことも原因です。)

建築人としてただ呆然とすると同時に、何とかしなくてはという無念と決意のような思いがこみ上げてきました。

新しい家づくりをめざして

2014年に起業し、事務所を開設するまで、大手住宅メーカーの設計本部と研究所に長く在籍していました。
その間200棟程度の設計に従事しましたが、先端技術を搭載したモデルハウス建設や研究所増設の大きなプロジェクトの建設を担当させて頂いたりして、非常に充実して満足な会社員生活でした。
管理職の期間もかなり長かったので、世間ではプロといわれる、営業担当、設計担当者の悩みもかなりうちあけられました。

また、自分が設計担当したお客様はもちろんのこと、研究所在籍時にはそれ以外の他の多数のお客様も対応させていただきました。

お客様の声は非常に貴重です。
プロや住宅会社、つまりつくり手の立場では気がつかないようなことを学ばせていただいたことに感謝しています。

いつからか家づくりは私のライフワークになっており、会社の業務終了後は自宅で図面やスケッチを描き続けました。その思いは子どもの頃からすでに始まっていたように思います。
さらに事務所開設後も独自の研究を重ね、後悔しない家づくりの鉄則や様々な手法が見えてきました。

あなたの家づくりが「後悔、不安、ストレスのない」、それでいて世界でたったひとつのすばらしい家になることを願ってやみません。

感動空間研究所一級建築士事務所 辻井秀彦

事務所名について
「満足や納得を超える、想像以上の感動のある空間や暮らしを創造したい」
「人と建物は心でつながってい、無常なので研究が大切」という思いから、感動空間研究所一級建築士事務所と名付けました。

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