チャレンジドとあえて言いたい理由
「チャレンジド」・・・初めて聞く言葉ではないでしょうか。
「チャレンジ・・・挑戦かなにかですか?」
何かしら心身に障がいを持っていることを表現するとき、「障がい者」や「ハンディキャップ」などいろいろあります。
何かネガティブなイメージがあります。
障がいを持っているからこそ感じたり、できたりすることは、間違いなくあります。
それを活かして、新たな世界観の芸術を生み出したり、新たな科学の発見やさまざまな情報を発信し、世の中に貢献出来たり、そんな話は枚挙にいとまがありません。
チャレンジドは新しい米語であり、世界では定着しつつあります。
障がいを持つ人という意味よりは「挑戦する資格やチャンスを与えられた人」という意味が込められています。ネガティブでマイナスばかりではなく、特別な視点や独自のキャリアにもつながる前向きな思いがあります。
だから冒頭でのセリフ「チャレンジ・・・挑戦か何かですか?」はあながち間違っていないのです。
障がいを「持つからこそ得られる経験や世界」を自分自身はもとより、社会に役立てていこうとする。
・・・まさにチェレンジであり前向きな姿勢のあらわれです。
この言葉は米国で生まれ、世界に広がりましたが、日本ではまだあまり聞きなれないようです。
耳が不自由になってからも、名曲をつくり続けた偉人
音楽界の偉人、ベートーベンが実は耳が不自由だったことは有名な話です。
20代の後半から徐々に耳が不自由になったそうですが、その後もすばらしい音楽を世に送り出しつづけました。
耳で聴く音楽を、耳が不自由な音楽家が作曲することは、そのまま聞くとハンディキャップであり、マイナスにとらえられるかもしれません。
思い悩んでいた手紙が没後発見されたとの話もあり、たぐいまれな才能と見識、そしてたゆまぬ努力で、そのハンディを克服したことは間違いありません。
ここからは私見なので、読み飛ばしていただいてもかまいませんが、別の印象を持っています。
ベートーベンは耳が聞こえないことを克服したというよりも、それを上手に生かしたのではないか。
耳が聞こえることは良い作曲ができるひとつの条件であることは確かです。しかしそれ以上に研ぎ澄まされた感性やひらめき、それを総合的にまとめあげる能力も必要ではないでしょうか。
もしかして耳が不自由になり、それを乗り越えていく経験からの人間力や耳が不自由だからこそ、感性がさらに研ぎ澄まされ、素晴らしい音楽家活動の原動力になったのではないかとさえ思うのです。
チャレンジドが実現できる家づくりをめざして
現在も神戸で、障がいをお持ちの方の家を設計中です。(執筆中の時期にたまたまですが)
設計者と生活者の垣根を越えて、こんこんと今後の暮らし方や人生を話し合っていくうちに、最初は遠慮がちで後ろ向きだった姿が、だんだん前向きで「こんなこともやってみたい」となってきました。
とてもうれしく思うと同時に、その生きる力と才覚を垣間見て、感銘を受けることばかりです。
ただ単にエレベーターを設置したり、段差を解消するだけでは、便利で安全な家にはなりますが、それ以上でもそれ以下でもありません。
それすらもない事が問題なので、課題を解決することは最低限必要なことですが、足りないものがあります。
それがチャレンジド設計です。
便利で快適で安全な暮らしは確保しながら、そこでいきいきと活躍し、ゆっくり安らくこともできる、自分らしさを表現した家に住んでほしいのです。